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機械式時計としての矜持

昨年妻の実家に帰省したおりに腕時計をひとつ義母から頂いた。もともと妻の祖父が持っていたものの、亡くなってからずっとしまわれたままになっていた時計である。言わば、形見の時計だ。見れば風防は傷だらけでいたるところに赤錆が浮いていている。ブレスレットは社外品のバンビに交換されていて、それもメッシュがひどく歪んでいた。

 

 

 

時計はRADO(ラドー)のSimplon(シンプロン)というモデルだった。調べてみると1972年のカタログに同モデルを見つけた。

 

白いカクテル シンプロン 25,500

当時はモデルごとにキャッチコピーをつけることが流行っていたのだろうか。白いカクテルの意味は不明だ。当時としてもそれほど高価な時計ではないが、時計に興味のないひとが思い切って買った、そんな価格だと思う。

 

70年代当時、ラドーは酒田時計貿易がかなり力を入れて輸入していたスイスの時計ブランドである。ひとによるとスイスよりも日本のほうが認知度が高かったと言わせるほどで、「スイスの高級時計ラドー!」と宣伝されていたそうである。ラドーだけでなくテクノスというブランドもまたスイスより日本のほうが有名なスイス時計と言われている。それだけラドー、テクノスは日本人が頑張れば手の届く高級スイス時計という位置づけで広く宣伝されたらしい。スイスであまり知られていないということは安く手に入るブランドということである。つまり安く輸入して高く売るということに酒田時計貿易が成功し、そこにラドーやテクノスはうまくフィットしたということだろう。

 

修理前のラドー・シンプロン

妻の祖父が残した時計は言ってしまえば庶民ブランドであるラドーの、よくあるドレスウォッチである。しかしこの時計を見たときぼくはがあああんという衝撃を胸に感じた。それはその古ぼけた時計に機械式時計としての矜持を見たからである。

 

 

 

時計とはなにか。

 

 

時計とは時を測る道具である。そもそもそれが大前提であり必須条件である。そのことをゆめゆめ忘れてはならないだろう。しかし現代において、超高級腕時計でさえ、その大前提を忘れてしまっている時計は腐るほどある。たしかにクォーツ時計登場後、メカニカルウオッチの計測機器としての存在意義は薄れたかもしれない。時計メーカーは計測機器メーカーから宝飾ブランドへと業態転換することで生き抜いてきた。だからといって、宝飾品だから時間を正しく読み取れなくても構わないというのは、自己否定と言ったら言い過ぎか。かつてその精度を競ってきたのもまた自分の歴史ではないか。それをまったくの過去のものとしてしまうくらいならいっそのこと時計など作らなくてもいいのではないか。そう皮肉りたくもなってしまうほどに時間をなんとなくしか読めない時計は多い。

修理後のラドー・シンプロン 文字盤のサビはそのままだ

このラドー・シンプロンに感じた時計としての矜持について話を進めたいと思う。

 

 

 

最初にこの時計を見て気がつくのが、その極端なまでに短い針である。長針も短針(この時計は二針時計なので秒針はない)も文字盤のサイズに対して不自然なまでに短いのだ。ここから想像できることは一つ、コストダウンである。多くのメーカーがそうしたように、このシンプロンもまた他モデルと針を共通化していたのだろう。そして中には角型の時計もあったに違いない。角型は中心から対角線方向が長く、辺方向が短いため、短い辺方向に針の長さを合わせざるをえない。それゆえに普通のラウンド型時計よりも角型時計の針は短いことが多い。

 

 

 

短い針は角型だから収まりがいいのであって、それをラウンド型時計に持ってくるとこのシンプロンのような悲劇というか喜劇が起きる。異様なまでに短すぎる針をみると思わず笑ってしまう。ところが、庶民ブランドであっても、時計は時間を計測するものという「時計としての矜持」をラドーは忘れていなかった。

 

針が短いのならインデックスを伸ばしてしまえ。

 

 

 

時刻を読み取るということは、時計の針が何時何分を指しているのかが正確にわかるということである。つまり長針は十分に長く文字盤のアワーマーカーに届いてなければならず、秒針も十分な長さのもとにインデックスの上を通らなければならない。そうしないときちんと時間を読み取ることができないからである。かつて、ジェラルド・ジェンタという時計デザイナーが極端に針の短い時計をデザインして人気を博したことがあったが、そのときはインデックスも文字盤の内側に配して短い針でも時刻を読み取れるようにしていた。つまり時計において、針とインデックスは一体なのである。しかし、現在の腕時計で、そう配慮された時計がどれだけあるかご存知だろうか。安い時計は言うに及ばず、超がつくような高級時計でさえ針とインデックスが永遠に届かぬ手を伸ばし合っているものが実に多いことに気がつくだろう。

 

 

このラドー・シンプロンは、決して高い時計ではないにもかかわらず、またクォーツの登場にいじけることもなく、短い針という短所をインデックスを伸ばして針に届かせるという離れ業で見事に克服している。そしてそれは当時のラドーが時計メーカーとしての矜持を持っていたからにほかならない。ぼくがこの遺品を復活させようと思ったのは、そうした当時のラドーの心意気をこの時計から感じたからである。

次回はムーブメントについて掘り下げたいと思う。