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亀戸に昔あったやり抜く力

東京都江東区に亀戸という土地がある。

亀戸はその昔は亀島という島でそこに井戸があったことから亀井戸になり、やがて井が省略されて亀戸になったと聞く。海が埋め立てられて地続きになったのは江戸時代になってからのことである。ちなみに亀戸の隣に大島(おおじま)という地名があるが、ここももちろん島だった。

亀島という名前はかろうじて残っていて亀戸三丁目にある亀島公園にその名を残す。

 

わたしが亀戸に移り住んだのは2005年のことだから今で14年になる。亀戸在住10年を過ぎた頃にはたと思いついたことがある。それは亀戸にまつわる何かを手に入れたい、記念に持っておきたいと考えたわけである。

 

亀戸は東京の下町にあたるので探せば伝統工芸品だとか職人が手作りしているものだとか、それなりにいろいろあったが、そんな中で特別に目についたのは第二精工舎の存在だった。

 

時計メーカーであるセイコーがまだ服部時計店だった頃、亀戸の隣町である錦糸町に時計工場を作った。それが精工舎である。ここでは掛け時計や置き時計といった「クロック」の製造を行っていた。そのセイコーが腕時計専用の開発兼工場を亀戸に作ったのが第二精工舎である。決して二番手だから第二ということではない。

 

セイコーは戦争が始まると疎開先拠点として長野県の諏訪に合弁会社を設立する。それが後に諏訪精工舎となり現在のセイコーエプソンにつながる。腕時計の開発及び製造の主力はしだいに諏訪精工舎が担うようになるが、第二精工舎も負けじと諏訪精工舎に対抗するがごとく腕時計の開発に力を注ぐようになった。

 

諏訪精工舎が高級ラインのマーベルを出せば第二精工舎はマーベルよりも薄いクロノスを開発した。諏訪精工舎がグランドセイコーをフラッグシップとして開発すれば、第二精工舎はキングセイコーで対抗といった具合である。

 

そうした歴史的背景を知れば知るほどに、わたしは第二精工舎の時計を手に入れなければいけない気持ちになっていったのである。もちろん一番手に入れたいと思ったのはキングセイコーである。それも亀戸で設計および製造されたものでなければいけない。

 

実際にアンティークウォッチ探し始めてぶつかった壁があった。

わたしの腕時計選びの基準として、カレンダーがない(no date window)というのが条件である。

カレンダー付きはいちいち合わせるのが面倒なので好きではないのである。たまに日付が間違ってても気にしないというひとがいるが、わたしは付いている以上あっていないと嫌な性分なので、あれば合わせようとしてしまう。そしてこれが朝の忙しい時にする作業としてはすこぶる面倒くさい。

 

時計が一つしかなければ修正する回数が少なくてすむだろうが、わたしのようにその日の気分で毎日違う時計を使いたい身にはカレンダー付きは気持ち的に重すぎるのである。それであるときカレンダー付きは絶対に買わないと心に固く誓ったのであった。

 

キングセイコーを探しているとそのほとんどがカレンダー付きであることに気がついた。当時、キングセイコーは実用時計の最高機種として発売されていたので、カレンダー付きは当然の選択だったのだろう。たまに見つかるカレンダー無しは変わり文字盤とかカットガラス付きとかばかりで、わたしが探していたオーソドックスで王道デザインの時計はなかなか見つからなかったのである。

 

そこでクロノスまで視野を広げてみることにした。クロノスはキングセイコーのベースとなった時計で、キングセイコー以前は第二精工舎のフラッグシップだった。そしてクロノスにカレンダーがついているものは逆にほとんどないのである。

 

そうして購入したのがこのクロノスである。クロノスの歴史の中でもごく初期に製造された個体で、アプライドのSマークがついている。インデックスも立体でカーブした文字盤にあわせて秒針が曲げられるなど高級品にふさわしい作りがされている。

 

クロノスにはちょっと恥ずかしい間違いがあって、それはスペルが「Cronos」と書かれ、本来ギリシャ神話の時間の神を意味する「Chronos」の「h」が抜けているのである。ちなみにhが抜けたクロノスは農耕の神を指すらしい。

 

もちろん農耕の神様のはずがないので、スペルミスということになる。セイコーがその間違いを認めて製品に反映するのは1970年代に入ってからのことである。なぜ間違えたまま15年以上放って置いたのか、知っている人がいたら教えてください。まさか15年も気が付かなかったとはとても思えません。

 

このクロノスの直径は34mm。手首の細いわたしにとってベストサイズである。厚みは8.55mm。風防がオリジナルではないと思われるため、もともとの厚みは不明である。8.55mmという数字だけみるとそれほど薄いと思わないが、風防がドーム型のため実際は数字以上に薄く感じる。またプラスティック風防のため非常に軽く、時計の重心が低くなってつけ心地はとてもよい。惜しいのはラグ幅が17mmという点だろう。奇数幅はベルトの選択肢が少ないので18mmだったら完璧だったのにと思わないでもない。

 

ムーブメントは手巻きで、ゼンマイを巻く時の竜頭操作が非常にやりやすいのもこの時計の美点だと思う。振動数は5振動だ。

 

このクロノスはお気に入りのひとつであるが、やはり亀戸の最高機種であるキングセイコーのことが頭から離れない日々が続いた。その思いが通じたのか、ようやくお目当ての個体に出会ったのである。

 

亀戸で設計、製造された時計であること。

もっともオーソドックスで王道デザインでセイコースタイルであること。

カレンダーがないこと。

 

その三つを兼ね備えたキングセイコーがこの時計である。

キングセイコーの中では比較的新しい時代に製造されたモデルである。確かに時計好きなら初代キングセイコー(ファーストと呼ばれている)もカレンダーがないというだろう。しかしわたしはセカンドと呼ばれるこちらのほうがデザイン的に好きなのだ。そしてこのセカンドでno date windowはなかなか見つからなかったのである。

 

時計の直径は36.6mm。わたしの手首には限界に近い大きさだ。昨今では38mmで小ぶりと言われるが、全然小ぶりに見えないと思う。それに3ハンドオンリーの時計で美しくまとまっているのは37mmくらいまでではないかとすら思う。たった1ミリかと思うかもしれないが、この1ミリの差はとても大きい。

 

厚みは11mm。アンティークウォッチの多くに当てはまるが、風防がドーム型をしているため、どうしても数字上は厚く(大きく)なってしまう。しかし厚みを稼いでいるのは透明部分のため実際は数字ほどに厚くは見えないのだ。そこがケースそのものが厚い現代の時計とは違うところではないだろうか。

 

ムーブメントはクロノスをベースにしたCal.44。手巻きで5振動も同じであるが石数が17石から25石に増えている。なにがどう増えているのはは知らない。実際手巻きは17石あれば十分という話も聞く。石数が多いほうが偉い的な考え方はいかにも日本企業的と言えるかもしれない。

 

ラグ幅は19mmでこれまた奇数幅である。もっとも選択肢が多い18mmだったらなあと思うことしきりだが仕方がない。今合わせているNATOストラップも19mmというのがなかなかなくてようやく見つけた一本である。

 

亀戸にあった第二精工舎はのちにセイコーインスツルメンツと社名を変えて現在に至る。そして錦糸町にあった精工舎も亀戸の第二精工舎も今は昔の物語。どちらもとうの昔に失われてしまっていて、かたやショッピングモールになり、かたやマンション建設の最中だ。

 

しかしかつてその卓越した高精度で世界を唸らせた腕時計の開発拠点があったのは事実であり、その時計の一つを亀戸ゆかりの記念として手にできた喜びはひとしおである。

クロノスもキングセイコーも末永く使い続けたい。