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読書会開きました。

日曜日読書会を行った。月70冊読む読書家Tさんはいつものようにビジネス書を三冊持ってきてくれた。その中の一冊「小さくても勝てます」さかはらあつし著はぼくのために持ってきてくれた本だった。Tさんからのエールであると同時にぼくが自力では掴みえないノウハウをさりげなく授けてくれるTさんは粋である。すでに半分以上読んだが、独立したぼくがしなければいけないこと、まだやってないこと、やる方法がぎっしりと書いてある。つまり、これを一通りやらずしてできませんでしたはないのである。この先何度も立ち返って読み返さなければなるまい。

 

Tさんは大のビジネス書好きで、月70冊の大半はこうした本を読んでいるという。かたやぼくはと言えば、ビジネス書などほとんど読んだことがなく、読む本と言えば小説がほとんど。だけど今回の読書会にはぼくにしてはめずらしく新書を持ってきた。「日本人の英語」マーク・ピーターセン著とその続編である。

 

「日本人の英語」はまさに目からウロコ本である。略してメロコ本である。そんな略ないか。

とにかく、もし学生時代にこの本に出会っていたら英語の学び方が180度異なっていただろう、それくらいインパクトの強い内容だ。はっきり言って、中学生の英語の教科書にしてもよいくらいの内容である。このような知識をもって英語を教えている先生はどのくらいいるだろうかと思わずにはいられない。

 

学生時代英語の勉強でよくジャパンタイムズを買って読んでいたが、そのジャパンタイムズの英語がとにかく酷いと実例をあげて説明している。読めばわかるが小学生レベルとかそんな次元の話ではないくらいに酷いという。その酷さに気が付かずに勉強だとおもってせっせと読んでいたぼくっていったいなんだったのだろうか。。。しかし大半の日本人は気が付かないで読んでいるのではないかとも思う。というのも、著者も言うように、英語で考えなければ英語を書くことはほとんど無理だから、である。

 

それはぼくもアメリカへ留学して英語漬けになって夢を英語で見るようになった経験からよく理解できる。著者は日本人のことをよく気遣っていて、自分も日本語で考えなければ日本語の文章を書くことはできないのであると告白している。

 

もう一冊はぼくが敬愛する筒井康隆氏の「文学部唯野教授」である。小説(虚構)という体裁でありながら、文学批評(史)がついでに学べてしまう素晴らしい本だ。昨今とくに強く感じることだが、ものごとの良し悪しやそれ自体の評価をするにあたって、結局のところ個人の好み、という結論がなされることがあまりにも目に付きすぎるきらいがある。

 

本作は、本来批評や評論というものは好き嫌いという低次元な思考を超越したところにあるものでなければいけない、ということを改めて教えてくれる。ぼくは「結局は好みの問題だから」というセリフが嫌いなのであるが、それは物事を突き詰めようする姿勢を拒否しているからである。よくフランス人は議論好きと言われる。イタリア人も見たところ議論が好きだと思う。イギリス人もそうだ。それは好き嫌いを超越したところで議論を交わせる技術と知識があるからである。ぼくも含め日本人はどうだろうか。本著は文学批評史を通してそんなところも考えさせてくれる良書である。