息子が4歳になった。まだまだあどけないし、ときどき赤ちゃんに戻っちゃうけど、時折見せる表情にぼくははっとさせられる。
我慢している顔。
思いつめた顔。
考えごとをしてる顔。
諦めた顔。
そうした表情は3歳まではなかったものだ。ただ無邪気に自分の欲求だけで生きてきた幼年期がいよいよ終わろうとしている。ぼくはそんな息子をみて、その成長を嬉しく思い、彼を頼もしく感じるとともに、もう二度と帰らない無邪気さだけの日々を思うと寂しさが喉の奥の方をこみ上げてくる。
だからぼくは最近息子がやたらに可愛くて仕方がない。それはぼくが彼の中の「赤ちゃん要素」を失うまいと必死になっているからだと自認している。彼の言葉は増々論理的になり、考えるプロセスが明確になる。もちろんそれはまだまだ完璧から遠く離れていて、赤ちゃんと少年の間を揺らぎながら行ったり来たりしている。そのゆらぎは今のところ赤ちゃん側に偏っているが、次第にそれは少年側へとシフトして、そしてついには赤ちゃんの側には戻ってこない日がやがて来る。
それをひとは成長と呼ぶ。もちろんぼくだって成長は嬉しい。一緒にできることがどんどん増えて、育児の手から少しずつ離れていって、ぼく自身だって楽になる。だけど、それと同時に幼児としての彼を失うことの淋しさだって感じている。そしてそれは思っていた以上に辛いものだった。
決してぼくは息子に成長してほしくないわけではない。成長してほしい。だけど同時に失うものがあって、それが想像以上に寂しいと言っているだけだ。そんなこと今まで思いもしなかった。子どもを持つ前はそんなことがこの世にあるなんて想像すらできなかった。きみを授かってからでさえ、こんな気持ちになるなんて考えてもみなかった。
育ちゆく我が息子へ。
I'm proud of you.
I miss you.