写真は撮って終わりになることはあまりない。撮った後の修正、もしくは編集というプロセスを経てひとつの作品になるからだ。家族フォトのように大量に撮影するケースではその編集が行えない替わりに撮影データを全て差し上げるというスタイルをとっている。
翻ってプロフィール写真のように渾身の一枚を作り上げる場合は編集までして完成となる。
編集はあくまでも撮影者のイメージを表現するために行われるものであり、美容形成的変更は行わないのでご了承いただきたい。
つまり、一時的にできた吹き出物、シミ、傷跡程度は消すが、顎を細くしろだの、目を大きくしろといったような「変身」はしないということである。
編集では個人的に気になる要素の除去以上に大切な工程がたくさんある。私の場合、RAW現像で基本となる調整を行ったのちにPHOTSHOPで狙いの写真になるまで追い込んでいく。
これがRAW現像しただけの写真である。
ウォームなトーンでこれはこれで悪くないが、今回はもっと印象的な写真を目指したい。
日本人はわりとのっぺりとした照明を好む傾向にある。あまり影がなく、光が全体に回っている写真だ。これは写真に限らず映像でも同じことがいえる。
これには二つの理由があると個人的に推測している。
一つはテレビの影響で、もう一つは蛍光灯である。
アメリカでは映像界の頂点はハリウッドである。つまり映画が一番で、テレビは二番手ということだ。テレビ俳優は皆、ハリウッドスターになることを夢見ているのだ。
映画の撮影技術で重要なのは光と影のバランスである。ナチュラルな世界を表現するためにアンナチュラルな世界をつくり出す。現実味を帯びさせるために非現実的な陰影をもたらす。
緻密に作り込まれた陰影により、私たち観客は映画にリアリティを感じ、物語に没頭することができるのである。
日本の映像界の頂点はテレビである。とりわけバラエティ番組が大半をしめる日本のテレビにおいて、照明はただ明るく四方から照らされて影を作らないのがよい照明とされている。陰影に乏しいのではなく、陰影がないのである。そうした映像を何十年も見続けてきたため、影があると暗いとかなんかおかしいと感じるようになってしまった人が多数をしめる。
これが1つ目の理由。そして二つ目の蛍光灯である。
蛍光灯の出現は、電球の薄暗い生活からまるで太陽のような明るさをもたらしたとして当時の日本人には福音と感じたに違いない。戦後から高度成長期へと突き進む日本人にとって、蛍光灯の明るさは昼夜を問わず働くことができ、明るい経済を約束する象徴だったのかもしれない。
白々しく明るい偽の太陽は日本を席巻し、雰囲気やムード、落ち着きといった言葉は忘れ去られていった。その蛍光灯もまた影を作らない照明装置だった。隅々まで明るく均等に照らす照明が当たり前になった日本人にとって、深い陰影はただの違和感でしかなくなってしまった。
上記二つの理由により、日本人はのっぺりとした照明を好む傾向があると私は考えている。
しかし一言に日本人といっても全員がそうではない。外国映画にある光と影のバランスが素晴らしいと感じるひとや、照明のない時代に描かれた絵画の陰影表現に感銘を受けるひともいるだろう。私はそういう人を一人でも増やしたいと思っている。陰影の素晴らしさを広めて行きたいと考えている。
私はハリウッド映画が好きでアメリカに留学までしたほどのアメリカかぶれ(当時)だったので、西洋人の作る陰影をいつも参考にしている。そして自分で撮るポートレイトにももちろん学んだノウハウを盛り込んでいくつもりだ。
そして編集した写真がこれである。