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坐禅会

去年から坐禅会に通っている。ここのところ行けない日が続いていたが久しぶりに昨日参加することができた。座禅は25分をワンセットに2回行う。この25分が一瞬に感じることもあれば嫌に長く感じることもある。坐禅中はなにも考えてはいけないことになっているが、どうしたって色々なことが頭を回ってしまう。考えないために目を閉じるなと教えられる。目を半開きにして畳の目地でもぼんやりと眺めるのがいいらしい。目を半開きにすることを半眼を開くという。お釈迦様などの仏像はみな半眼状態である。

 

坐禅会に通う寺は清澄白河にある慧然寺という。かつては広大な土地を有していたというが、その大半を民間に売り渡して現在は都心部の寺らしくこぢんまりとしている。自転車を停める場所すらないので仕方なく電車で行っている。

 

坐禅中は写真のように時計を裏返しておいている。坐禅をしているときくらいは時計の時間経過から離れたいからだ。腕に着けていても邪魔なのでこうして逆さまにして置くのがちょうどいいことを何回か通って編み出した。

 

坐禅で難しいのは姿勢を保つことである。気がつくと背中が丸まってしまう。坐禅中は何度も姿勢を立て直すことになる。坐禅を行うたびに正しい姿勢を維持する筋力不足を痛感する。

 

坐禅が終わると住職による説法がある。たいてい良い話なのだが必ずクスリと笑わしてくるから話が上手いなあといつも思う。最後は座禅和讃という日本語で書かれたお経をみんなで詠んで終了となる。ぶつぶつ呟くような参加者と違ってお坊さんの声が朧朧と響く。そういえばお坊さんはみないい声をしているなと思う。入門試験に発声能力も試されるのかしらんとか思う。

 

明恵上人の本などを読んでいると、坐禅中にある種の普通でない状態になり見えぬものが見えたり、通常では想像がつかないことを体験したりするという。明恵上人に尋常ならざる神通力があったのかと言えばおそらくそうではなくてランニングハイのような坐禅ハイになる状態があるのだと思う。ぼくが敬愛する小説家マイケル・クライトンは著書「トラベルズ」の中でメディテーションを通してサボテンと会話するに至ったと書いている。

 

ぼくなどはまるで雑念だらけでとても心を無になどできやしない。それでも時間が許す限りせっせと坐禅会に通うのはなぜだろうかと思う。今はその答えを知らないが、物事には長く続けることでわかることというのがあると信じている。ぼくにとって坐禅もその一つなのだろう。