キミはジル・ブラース物語を知っているか。
世の中には読まずに死んではいけないという本がある。このたびそこへ加わる本を見つけてしまったので紹介したい。私が尊敬するアランが読めと言ったのが「ジル・ブラース物語」である。「ジル・ブラース物語」はル・サージュというフランスの作家が書いた長編小説である。ル・サージュはフランス初の職業作家であると言われている。著者はフランス人だが、物語の舞台はスペインである。なぜスペインかと言えば、ル・サージュがスペイン語の翻訳をやっていた関係でスペインに詳しかったのと、アンシャンレジームを風刺するのに直接フランスを舞台にするのを避けたのではないか、と思う。
アンシャンレジームというのは旧制度を言い、貴族特権階級と平民を明確に区分した封建社会を指している。本作もそうしたはっきりと差別された身分制度のなかで、平民生まれのジル・ブラース君がその純真さ、誠実さ、無垢さ、無知さのおかげで山あり谷ありの人生に翻弄されながらも次第にいっぱしの大人に成長していく物語である。
平民であり且つ若者が仕事にありつく場といえばまず貴族や金持ちの従僕になることである。ジル・ブラースは持ち前の誠実な性格によって主人に安々と気に入られる。ところが主人の気まぐれを通り越した不条理な理由によりあっさりと首になったりする。しかし見ている人は見ているもので、実に有能なジル・ブラースをほっておくはずもなくまた別の貴族に召し使える身になる。物語は基本的にその繰り返しで、様々な家を出入りしていく。そこで出会う人々との交流の描写が秀逸で、人間模様が描かれていて大変勉強になる。18世紀の様子を読んでいると人間というのは21世紀になってもまったく変わっていないと感じる。少しも違わないという印象である。
ジル・ブラースは主人の心を読むのが大変うまい。相手の喜ぶ言葉を使うからである。そして従僕でありながらだれよりも主人と近しい関係に上り詰めるのであるが、それは気持ちの上での話だけであって、実際は従僕のひとりであり、貴族の主人とは超えられない一線がある。それによって主人公は不条理に振り回されるのであるが、そこに風刺がきいていて面白い。著者ルサージュの言いたいことがふんだんに振りまかれている。翻弄されるジル・ブラースが可哀想で終わらないのが本書の良いところであり、ちゃんとあとで読者の溜飲が下がるようになっている。
物語は長い。なぜ長いかというと新しく人物が登場するたびにそのひとの歴史が紐解かれるからである。昔の小説はこういうものが多いような気がする。ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟でも司祭の生い立ちが延々と短編小説一本分も続いてげんなりした記憶がある。ジル・ブラース物語においても同様で、最初はいいがそのうちまたかという気持ちになってくる。ジル・ブラースの冒険の続きを早く読みたいという読者の気持ちを焦らすのである。
基本的には誠実なジル・ブラースであるが、金に目がくらみ、溺れるときがくる。持ち前の純真さを失い貴族でもないのに貴族のように振る舞って、ようするに勘違いをする。そうした主人公の行動がとても人間という生き物らしいとルサージュは訴えている。
その後大方の読者の予想どおりどん底に落っこちて、再び返り咲いて大団円を迎えるのであるが、ジル・ブラースを支えたのは徹底した人間関係によってであった。過去に他人に施した恩が帰ってくる。苦境を脱出できたのはそれまでジル・ブラースが培ってきた人脈の力だった。ルサージュはアンシャンレジームを批判し、面白おかしく書きながらもその根底には人間関係の大切さを説いたのではないかと思う。人類必読。